ふだん記 23号 父の大型トランク
私の生まれは和歌山県太地町です。
ここは日本捕鯨発祥の地であり、別名アメリカ村といわれ、アメリカへの出稼ぎが盛んなところでした。
父の叔父、叔母もアメリカへ行っており、その呼び寄せで父もあんに違わず二十歳の頃に日本を飛び出したのでした。家業がいやでとも聞いておりましたが。
開戦直前、最後の交換船龍田丸で強制送還されて帰ってきました。私が十九歳のときでした。
父の写真もあの時代にしては多く残っており、私たち兄弟の写真も、宮沢写真館で毎年正月に撮って送っておりました。
あまりに長い間顔を合せることがなかったせいか、父が帰ってきても実感が湧かなかったのですが、肉親の暖かさが感じられ、嬉しさいっぱいでした。
母もさぞかしであったと思います。父不在の中での足入れ婚、すぐ渡米するつもりで英語を習っていたようです。エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、何度も繰り返し、思いついたように諳んじていました。ついに一度も行かずじまいでしたがこれを聞くにつけ遠い海の彼方の父への思いが伺われました。
当時、飛行機便は勿論なく、船旅二十日ぐらいはかかったようです。日本に家業があり、舅がおりましたのでいけなかったのでしょう。しがらみを断ち切って渡米しておれば、私や兄は二世、あの戦争ではどちら側で戦うことになっていたのか。運命かな・・・。
父が持ち帰ったものは、一立方メートルくらいの大型トランク二個、当時、物資不足の日本では宝の山でした。
所持金は九千円余り(一ドル三百六十円の時代です)、二千円で二十五坪の家が建った頃ですから、結構な額でした。お金があっても物資不足下の日本、闇物資なら別ですが、要領の悪い不器用な私等にはなかなか食料を手に入れることはできませんでした。
ある時、野草のケンショなるものを皆でお浸しにして食べましたが、父がひどい下痢を起こしたことがありました。代用食の、いも、豆、昆布飯、昆布の量が少なければまだしも量が多くなると私等でもぐっとくる臭いに、いくら腹が減っていても食べられないときがありました。父には耐えられなかったのでしょう。
英語は長年のアメリカ暮らしでペラペラと思ったのですが、単語を並べて手真似で意思を通じさせるブロークンイングリッシュもいいところでした。
日本語もたどたどしく、母に聞くと、若い頃から無口な人だったとか。それに加えて長年の一人暮らし、だれとも対話がなかったのでしょう。英語もその通りで友達もできなかったのではないでしょうか。向こうの様子を聞いてもさっぱり要領を得ず、わずかに宝箱の中に向こうの仕事や生活をうかがわせる品物がありました。
− 色のはげた、潰れかかったブリキの弁当箱。カンナに引き出しのついた鰹節削り器、防塵眼鏡と防塵マスク。
私が満鉄の機関区に勤めていた頃、蒸気機関車の煙突掃除で満人の方が全身石炭の煤だらけ白く残るのは眼鏡とマスクだけという姿を見たことがありました。これに父の姿を重ね合わせ、技術のない東洋人にはこのような汚れた仕事しか与えられなかったのだろうかと想像しています。
下町の下宿屋の薄暗い小部屋で、鰹節のだし汁で味噌汁かスープの朝食をとって、色がはげ、潰れかけた弁当箱を下げ(水筒と取っ手がついていました)、とぼとぼと通勤、帰宅。くらしまだけが迎えてくれる、こんな生活の繰り返しで四十年。いつも涙がこみ上げてきます。
釜石へ帰って二年余り、終戦後すぐ亡くなったのですが、食糧増産に平田に畑を借り受け、毎日神経痛の足を引きずりながら、麦わら帽子、手作りのマドロスパイプ(煙草好きでした)、デニムの作業服で通った姿が思い出されます。
当時としては、服装も体型も日本人離れしていて、長年のあちら暮らしで表情もあちら風になっていたのか、地元松原の人たちがつけたあだ名が「アメリカじいさま」、うまいね。
最後の最後まで、私たちのために働き通しでした。ない物づくしの食卓を家族の笑顔が囲んでいる、父の七十二年の生涯を通じて、釜石の二年は最高の年月であったと、そう思いたいです。
(純一)数年前、和歌山に住む親戚の向井ゆみ子さんがテレビ東京の「海運!なんでも鑑定団」に出演されており、私もTVで興味深く拝見いたしました。カナダに移住されたときに手に入れた西洋人形を鑑定してもらっていました。当時、カナダ、米国西部への移住が多かったと思われます。
表紙感想−佐々木静子
東さんが昔話の絵を見ながら言いました。「今おれは壁にぶつかっているのだ」と。版画を彫るようになって絵画グループに入り基礎となる構成、スケッチ、色彩の調和なぞ学んでいるのだと研究熱心な東さんが昔話の版画を鑑賞しながら静かに語った。「壁を破る削岩機がないかね」。私は安易に言った。釜石には絵を描く人口率は濃いが版画を手がけ作品展をしている展示会をあまり耳にしない。良い作品に多く触れることが大切なことなのかもしれない。こんな会話を交わしながら「ふだん記」の表紙を思い出す。
「月にすすき」 この十月に相応しい題材。白く色抜き去れている月の中に黒のすすきが程よく入り込み、黒の夜の情景の中に白く色抜きされたすすき、なかなかの腕前、技術力です。渋い表紙をめくるとなんと色彩々として美しい金柑、これだけで二十三号は人前に出して恥ずかしくない一冊です。
(「ふだん記通信六十二号」十一年十一月十日)