父、そして母の事
明治四十三年五月、父の渡米中に母は奥野に嫁して来た。父三十三才、母二十四才である。
俺は母が三十六の時生まれたのだが、十九の時、初めて六十五才の父の顔を見た。大東亜戦争開戦直前の最終交換船「竜田丸」で帰って来た時だ。
所持金九千円ちょっと、一米×一・二米の大型トランクが二個。中身は、鰹節削り器、「AJI(味の素)」、上等な防寒コート、防塵マスクと眼鏡(これは在米中の仕事と関係があった)手提げのついた水筒も入っている弁当ボックス。
そして、縁を巻き取って開ける平丸缶入りのブラジルコーヒー、甘味の無いスキンミルク、サラサラした砂糖(今思うと、生クリームとグラニュー糖だね)。一緒に持ってきたサイホン管のついたポットを使って、コーヒーを炭火で沸かす。結構新しがって飲み、近所にも振るまっていた。母はブラックが好きだった。
兄と俺への土産はジャンバーだった。この頃には珍しくチャックが付いていて、先輩、友達が面白がって上げ下げして割合早く壊れてしまった。記憶にあるのはこれ位だが、当時の日本の衣料や食料事情から考えると、このトランクは宝の箱のように思えた。
父は、アメリカのデンバーに出稼ぎ四十年の大ベテランであった。その間、時々帰国して、八才違いの兄と俺が存在する。昔はこんな結婚があったのだ。父は在米中の事を殆ど話して呉れなかった。どんな所に住み、どんな物を食べ、どんな暮らし、仕事をしていたのだろう。その辺の事を想い巡らしていたら、不覚にも涙がこぼれてきた。ちょっと鉛筆を置く………。
一九〇〇年頃、太平洋を三十日も掛けての船旅の末、渡った異境の地。言葉も通じない人達の中での一人暮らし。俺には孤独という言葉しか見つからない。日本語を忘れたわけでもないだろうが、寡黙、だんまりにならざるを得なかっただろう。母や俺との会話にも思い出しながら話すようなたどたどしさがあった。かと言って英語が堪能だった訳でもない。単語を並べて手マネ足マネのブロークンイングリッシュだった。在米中の事は思い出したくなかったのだろうか。
数少ない言葉から察するに、デンバーの鉄道工場で、蒸気機関車の釜掃除をやっていたようだ。トランクの中の防塵マスクや眼鏡でも分かる。その頃の日本人労働者には単純なこんな仕事しか無かったのだろう。
同じ頃、母方の叔父は夫婦で渡米して、花作りと販売で財を成し、十五年位で日本に帰り老後を悠々と過ごした。そんな人もいた。
俺の初めての就職は満鉄機関区の技術部で、蒸気機関車の整備・手入れ・掃除をする所であった。現場は殆どが満人で、日本人はポイント毎にしか居なかった。よく見掛けたのが、防塵マスクに眼鏡を掛け、煤で真っ黒の顔と軍手をした満人だった。異境の地での一人ぼっちの父を思わせるものがあった。鉄道工場へ、近くか遠くか分からないが、どこかの下宿から、あの弁当ボックスを持って通ったであろう四十年間…。
そして母ー
家業は和歌山県太地町で鯨の缶詰加工をしておった。太地は古くは熊野水軍、捕鯨発祥の地としても知られ、隣にはアメリカ村があった。一人がアメリカへ行くと、近親を呼び寄せるなど、なかなか渡米熱が盛んな村であった。どうも父の性格では、アメリカに憧れてとか、一旗揚げてとかいうよりは、家業を継ぐのが嫌でアメリカへ逃避したらしい。俺はそう思っている。今では確かめるすべもないが。
父不在の結婚後、母は祖父の片腕となって奥野缶詰所を守ってきた。カタカナしか書けなかったが、新聞は読んだ。当時の新聞にはルビがふってあったからだ。東京日日新聞だった。そして何時、何処で習ったのか算盤が得意だった。加減乗除は抜群で、大っきな五つ玉で「にいちてんさくのご」と言いながら音を立ててやっていたのを思い出す。
漁の最盛期には女子工員四十〜五十人、男子工員四〜五人、それに缶詰職人二〜三人、の多人数を取り仕切り、なおかつ缶詰の調味液の調整、魚市場からの生原料買い入れ(存命中は祖父の担当だった)、或いは缶詰容器の手配など…、たいそう忙しかった。副材料として四斗樽入りの醤油、南京袋二十貫入りのザラメが隅っこに山積みにされていた。…思い出した…、このザラメと新しい缶の持ち出しを、がき大将に命ぜられること度々…。缶にザラメを入れ水を入れると、その頃としては結構なおやつになったのだ。
昭和八年二月、祖父が没した。その一カ月後の三月三日三時頃、三陸大津波があった。その頃の工場は釜石大渡町の南裏にあって、石応寺の山へ逃げたんだっけ。帰ったら一面泥の海、工場内はてんま船や近所の製材所からの材木が散乱し、加えてすさまじい悪臭! 泥の跡を計ってみたら、床上浸水三十センチだった。
以前から、兄が、釜石専修学校へ通学しながら家業を手伝っていたが、祖父没後、卒業と同時に十九才でメインになった。母の応援を得ながらではあるが。十一才の俺は、出勤カードの判子押し係り。好きな人には大分押し増しして、経理面の赤字の方に貢献していた。
若い兄を盛り立てながら、よくあそこ迄工場を維持し続けたものだ。母には敬意を表する。夜遅くトイレに起きて茶の間の前を通ると、まだ明かりがついていた。長いキセルで煙草をふかしながらため息をついて考え込んでいる母を、何回かかいま見た事がある。
当時、魚市場との取引は六月と十二月清算の掛け買いであった。中間に入金はするのであるが、決算期には皆苦労していた。家でもご多分にもれず四苦八苦であったが、最後の切り札を持っていた。アメリカの父からの送金である。あの頃は一ドル三百六十円時代で、二千円で十五坪程の家が建った。それを千円二千円と送金していては、一介の日本人労働者の賃金では相当な負担になっていただろう。相応にまとまった金を持って日本へ帰りたいと思っていたに違いないのだが、こう定期的に高額の金をせびられてはなかなか…。在米が延びに延びて四十年にもなったのは、この辺に原因があると、俺は思っている。
昭和十五年頃、軍備拡張とか増強をスローガンに全産業がこれに集中された。統制経済になってからは、姐御肌の母と、若い兄との大福帳的な経営では、乗り越える事が難しくなってきた。その矢先、唯一人残っていた缶詰職人の小野さんに召集令状がきた。入隊までの数日間、缶詰機械の取扱いを、兄が昼、夜となく特訓を受けていたのを覚えている。
その八カ月後、今度は兄が入営した。これでは幾ら気丈な母でも手足をもがれたようなもので、お手上げだったろう。釜石へ来て十八年目で廃業となった。この間、奥野缶詰を支えてきたのは、祖父、母、兄、そして経済的に大きく支えてくれたのが父であった。
父が日本へ帰ってからの時代は、代用食、昆布飯が盛んな頃で、「欲しがりません勝つ迄は」のスローガンが巾をきかせていた。父には考えられない食事だったろう。ある時は山菜を食べてひどい下痢を起こしていた。
平田に畑を借りて、じゃが芋や、豆などを作って、食卓を潤してくれた。アメリカ風の仕事着(今のジーパン)を着て、口にパイプ煙草をくゆらせ、神経痛で不自由な足を引きずりながら通った長い平田路…。これが孤独で四十年間働き続けた父の晩年とは、あまりにも可哀そうな気もするが…。いやいや、衣食はともあれ、亡くなるまでの数年間家族と共に安定した、充実した日々を過ごしたのかも知れない。
父の遺品の中に、横文字のカードがあった。何年かたって調べてみたらアメリカの年金証書であった。諦め半分で手続きをしたら、なんと遺族年金が送られてきたよ。戦前に掛けた、しかも交戦国ー敗戦国の日本人にねえ…。結構な金額だったらしく、母は左うちわで兄嫁に大事にされ、結構な余生を送った。俺はちょっとアメリカを見直したね。
俺の幼、小、青年期は父の顔、味を知らない。母は商売唯一筋、家事は一切お手伝いさん任せ、頼りは八つ上の兄だけで、割合経済的には恵まれておったが、淋しいものがあった。
以上が吾が家の大まかな三代記だね。
終わり
(『ふだん記六号』平成六年三月)
読後感想ー佐藤竹男
★父そして母のこと
人の一生も古稀ともなれば、裏も表もかなりなもので、異郷で唯独り家族のために頑張った父のこと、子育てと家計のため二役も三役も努めた母、その母を助け筆者を守ってくれた兄、三人三様の姿に心が引きずり込まれました。
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