私記−あれこれ
昭和二十年、中国大使館の隣り麻布小学校の地下室にいた。船舶通信隊が小学校の地下室とは…。これを見ても敗戦の様相まざまざであった。東京の六百機空襲! 凄かった。釜石のインクラインからノロかす−鉱滓−を投げていた時のように夜空に映えて赤々と望まれた。
不発の油脂焼夷弾で風呂を沸かしたこともあった。信管、火薬を抜きとり、切り開くとガソリン臭のゼリー状のどろどろとしたものが出てくる、これを燃料としてドラム缶風呂。焼夷弾で沸かした風呂、なかなか乙なものであった。
満鉄入社中に徴兵検査。昭和十八年一月、公主嶺の五三〇部隊−戦車二三部隊−へ現役で現地入営。初年兵−泣きが多かった。特に対向ビンタ。お互い段々強烈になってくる。二期目は通信の方へ配置される。二年後に南方要員として全満州から掻き集められ、釜山港に集結した。軍用列車で十日位かかった。
この時、部隊から駅まで一時間位の距離、駅近くで危うく耳を落とすところであった。十二月の極寒期−零下二十度−に南方へ転属という事で、毛皮・毛糸の防寒衣服は全部返納、内地並みの軍装で四列縦隊で行進していた。突然後ろの戦友−名前は思い出せないが感謝−から、おい!耳が白くなっているぞっ、と声を掛けられた。凍傷寸前だ。冷たい、痛いが過ぎて感覚が無くなり耳がポロリとなるのである。早々に掌で耳を擦った、擦った。無事現存しているから助かったのだろう。ただし後遺症はあった。復員後五、六年は、零下二、三度でもまず一番に耳が痛くなった。
目的地も知らされず釜山を出港して一日目だったろうか、やっと上意下達があった。台湾へ行く予定が、潜水艦情報悪く釜山へUターンするとのお達し。上陸は許されなかったが十日位停泊。この間に行き先が決まったようだ。
その後、広島へ。上陸だ! 三年来待ち望んだ内地の土を生きて確かに踏んだ。
暁一九四三部隊−船通補−に配属、補充要員とは消耗品的存在だ。戦通兵が船通兵に、陸が海に変わった。共通点は戦車と同じ無線機甲が、上陸用舟艇に装備されたことだ。この舟艇の演習場は瀬戸内海、海の虎ともてはやされ、陸軍の宣伝用に映画も撮った。九州の津久見辺りまでも行った。しかし無線機の故障は随分あった。原因は湿気だね。ゴムシートで覆った位ではとてもとても。
命拾い。当時大阪城は軍の兵器倉庫になっていた。班長と二人で兵器受領の連絡に行った時の事だ。広島から大阪までは順調にいったが市内電車は動かず、二駅位歩いて城に達した。空警発中だったが、堀に沿って歩いていた。来た! ゴーッと、B29の編隊、えっ! 逃げ場がない! あの大きな松の下へという事で走った二、三秒後に私の右手の堀の辺りでビシッ、即ボリュームのある鈍い音、そして水しぶき、堀の石垣すれすれに爆弾が落下、頭からずぶ濡れ。もし地上へ落下したらそう大きな爆弾ではなかったが、直撃、いや十米、二十米離れていても爆風でやられたであろう。
釜石に第一回の艦砲があった時。二泊三日の休暇を貰って東京から帰宅。明日は帰りと餅を作っている最中、空警発令、我が家の防空壕へ退避。この防空壕なるものは年取った父母、兄嫁が作ったものでトタン屋根の掘っ立て小屋の中に、三十糎位掘り下げ丸太を渡し、古畳五、六枚乗っけただけのもの。しゃがんで二、三人入れば満員、最後に入った私の身体は畳の下、足は外へ投げ出されていた。暑い…暗い…長い…苦しかったその最中、屋根にプスッと何か、気にも止めず、汗だらけでやっと静かになった外へ出た。何気なく上を見るとトタンに十五糎位の細長い穴。うわっ破片だ!と真下を木切れで三十糎位掘ると、出ました、掌大の剃刀状の鉄片。あの巨大な四十糎砲の破片だ。右に十五糎ほど寄った所には投げ出した足があったのだ。今思い出しても冷汗三斗…。
満州の公主嶺へ入営、転属、釜山港を経て広島へ、原爆一ヶ月前に東京へ移動、間もなく三田の本部で玉音放送、途中泣きながら帰隊して、そして哀れな終戦を迎えた。
釜石への復員も大変だった−シベリヤ帰りは笑うだろう−、有蓋貨車だったが、身体より大きな荷物を背負った復員兵で満杯でもう乗れない。そこで私は炭水車の石炭の上に乗って福島まで来たのだが、段々石炭が減って危なくなる。やっとの思いで貨車の方へ移ったが、片足上げるともう下げる場所がない。少々オーバーだがとにかく盛岡まで立ち通し、カラス号で煤だらけに仕上がって釜石へ到着。よくぞ生きて帰れた…。
くさいがくさくない話。満州の極寒期の汲み取り、汲むのではないが…まあ、用具は籐編みの籠と長い金梃、スコップと二輪の馬車。大をやると着地と同時に凍結するので筍状に上へせり上がってくる。これを糞筍という。これが至近距離に迫ってきたら各人ハンマーで粉砕する。小の方は色のついた氷原となるのである。限界に達すると、汲み取り屋さんはこれらを梃で壊し、スコップで掬い、籠に入れ、天秤で担ぎ、車にバラ積みにする。梃を入れる度に氷片が衣服や顔に飛んで付着!やはり若干?におってくるようだ。
−あの三年間の想い出−
人は極限状態を体験・体感すると、いざという時に気持ちにゆとりが出てきて、ある程度耐えられるようになる、現代のサバイバル体験の目的もこの辺りにあるのではないだろうか。
一九九二年五月二六日、記
(『ふだん記一号』平成四年七月)
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