2006.5.18
9.9up
私は父親っ子である・・・少しファザコンが入っているかもしれない。
顔も気性も父方の祖母に似ているとよく言われる。
父も祖母に似て、呑気でほがらかな人だった。
人からは図々しいと思われかねないが、人の物は自分の物、その代わり自分の物も人の物というような人だった。
父は和歌山で生まれている。
家業が缶詰加工で、鯨を追いかけて釜石と太地を行ったり来たりしていたそうだ。
父2歳の時に、釜石に定住したらしい。和歌山生まれの岩手育ち。
根っからの釜石弁なのに、時々耳慣れない”サイバン(まな板)”とか、”テショウ(手皿)”とか言う単語が飛び出してくる。私がよく使う”片す(片付ける)”も和歌山言葉に違いないと私はにらんでいる。
父の父はアメリカに出稼ぎに行き、祖父と母と兄の4人・・・それに缶詰加工の職人さん(太地の人)、女工さんがいて、ねえやさん(お手伝い)もいて、賑やかな環境だったらしい。
父の祖父は、一升瓶は底が見えるからと樽酒を置いて呑んでいたそうだ。
いつも祖父の丹前の懐に抱かれていたとよく言っていた。
8歳上の兄は商業学校を卒業後、家業を継いで二十歳で母親の選んだ人と結婚し、父は12歳で叔父さんになった。
甥の乗った乳母車を愛犬のタムに繋ぎ、引かせていたら、猫を追いかけて下り坂を駆け出したタムを制止出来ず、甥に怪我をさせ兄嫁にこっぴどく叱られたとか。
頼もしかったあにさんや、アメリカから送ってくる珍しい物の話をよくしてくれた。
その頃、珍しかったジャンパーのチャックを何度も上げ下げして壊してしまったそうだ。
高等科を卒業後、盛岡の工業高校を目指すも、膿胸を患い断念。1年療養。
定義山のカビだらけの餅を食べたから良くなったとよく言ってた。
命拾いをして、お礼参りにも行ったらしい。
1年後、釜石工業学校の1回生として入学。先輩無しのテニス部に入っていたらしい。
半年ぐらい早く繰り上げ卒業し、狭い日本にゃ住み飽きたと満州鉄道に勤めた。
煤だらけになって働く満人労働者に、アメリカでボイラーマンをしていたと言う自分の父親の姿をダブらせてもいたらしい。
父親との縁は薄い人だった。アメリカで四十数年働いて、たまに帰ってくるだけの父親は、第2次大戦開戦直前の最後の交換船で日本に帰ってきて、戦後間もなく亡くなっている。
長年異国で暮らした為か無口な人であったという。
戦後、米兵が国旗を貰いに来た時、父が片言の英語で対応したと言うから、祖父はブロークンイングリッシュだったのだろう。
戦後、工業の同級生と、英語を覚える為に三沢エアベースに勤めている。
”アメリカ人は、真冬にアイスクリームを食べているんだぞ”とよく言っていた。
先日、居眠りをしながら何やら訳の分からない寝言を言っていた。
目が覚めて、今、電話で英語で上司への取次ぎを頼んだと言う。
一緒に行った三沢組とは賀状の交換を欠かさず続けていたが、一人欠け二人欠けし、”東君と俺だけになってしまった”と言う賀状を頂いている。
父は名前が4度変わった。
小学校の頃は奥野晃夫(てるお)。
工業に入る時、戸籍と字が違っていたと、奥野輝夫を使うようになった。
学校の同級生とは今でも奥野君で通っている。
二十歳、満州で徴兵検査を受け、帰宅したら、知らない間に東輝夫になっていた。
母親が自分の実家の跡取りにと名前だけ養子に出したらしい。
和歌山ではヒガシと読むらしいが、父は東北はアズマが多いからと読み方を変えてしまった。
お陰であいうえお順だと何事も初めの方になる・・・私はヒガシに戻したいと何度か考えたが実行には至らなかった。
そして、今は戸籍上の本当の漢字、東W夫として、新聞の訃報欄に載った。
光ではなく火遍・・・1度だけエッセイか何かでW(アキラ)と言う名前を見た事がある。
あまり使わないが、実在する漢字である。
戦後は色々な職についている。
岩手缶詰に勤め、女工さん達の先頭に立って生け花(草月流)を習いに行ったとか、ダンスを少しだけ習ったとか、石井組(工業の同級生の土木業)で働いたとか聞いている。
母とはお見合いだったが、母はばあちゃんとお見合いしたと言っている。
何か用事を言い付かって近所に行ったら、そこにばあちゃん(祖母)が居たらしい。
本人とは結婚式の時に初めて会ったという。
結婚したくなくて、わざとパーマを掛けたとか、弟に”東さんは神様みたいな人だから”と説得されての結婚だったそうだ。
知り合いに誘われて花巻でイサバ屋(魚屋)をした事もあったそうだ。
そのせいか、魚をさばくのは得意だった。
”魚は俺に任せろ”と焼き魚や刺身を作っていた。
何かの仕事についた時姫路への転勤が決まった。
母の父(舅)が慣れない場所に行く娘と孫を案じて、自分の工場で働くように誘ったらしい。
その翌年私が生まれ、以来三十年、工場が解散するまで職を変えずに勤めている。
製鉄所勤めの後自分の工場を開いたじいちゃんに実務を鍛えられ、工業学校で習った知識もあり、図面はフリーハンドが得意だった。技術的な言葉はドイツ語で覚えていた。
何かの機械を作る時は、私に”これがモーターで、ここのギアで回転がこうなって、こういう動きをするがどう思う?”と聞いていた。分からないながらも”出来るんじゃないかな”と答えていたが、こんなやり取りで考えをまとめていたのだろう。
お陰で図面の見方は何となく分かるような気がする。
子煩悩な人だった。
町工場なので早出・残業、たまの休みも呼び出しが掛かるのだが、ほんとにたまの休みにはあちこち連れてってくれた。
私が歩けなかったので、5〜6歳の私をおんぶしてバイクに乗って走った事もある。
服の下に水着を着て、父におんぶされて汽車で海水浴にいった事もある。
母と兄と4人で近くの海に行き、父も兄も泳ぎが得意だったのに、私は海に浮いた油がくっつくと騒いで溺れかけた。以来泳いではいない。
私は体が弱かったので、工場の父を呼び出す電話をよく掛けたらしい。
父は”うちから電話”と言われる度にドキンとしていたと言う。
父の口癖は”蒲柳の質”と”天涯孤独”・・・。
”俺は天涯孤独だ”と言う度に、ご近所さんに”東さんには奥さんも子供も居ないもんね”とからかわれていた。
元々は呑めなかったらしいが、母の兄弟が皆のんべで、船のエンジン修理の仕事等をすると、お客さんは酒を持ってくる。頂き物のイルカを焼いて叔父達と呑み残業である。父も、叔父達も呑むほどに陽気になる、楽しい酔っぱらい達だった。私が、さほど呑めないくせに酒席が好きなのは、父と叔父達のそんな姿を見てきたからかもしれない。呑んべの扱いは得意である。
ご近所さんの誘いで母と一緒に高齢者大学に通い始めてから、父は趣味を見つけた。
それまでは、仕事が趣味みたいな人だった。
付き合いも、仕事場での母の弟達、仕事関係の知り合いばかりだった。
工業学校卒業以来、初めて、仕事以外の別の世界の人達と付き合ったのではないだろうか。
それまで、文を書いた事も絵を描いた事もなかった人が、生き生きと自分史を綴り、絵画教室の仲間とスケッチに行くようになった。
石橋先生のご指導で版画を彫り、七十の手習いと美術展に出品し入選、数年続けて展示されている。
郵便局で展示して、来てくれた人に版画を贈りたいとも言っていた。これは実現しなかったが・・・。
高齢大で知り合った人達とグランドゴルフをし、マイスティックを持っていた。
ゲートボールは意地悪するからやだと、グランドゴルフで思い切りボールを打つ事を好んだ。
いい所まで行くらしいが、最後の詰めが甘いと反省していた。詰めが甘いのは私も似てるかもしれない。
根っからの音痴で、軍歌以外は、娘がやっと教えた”知床旅情”をかなり音程をはずして歌っていた。ただ、他の人が音程をはずしているのは分かるようなので、喉の音を出す調整がうまく出来なかっただけだろうと思う。
そんな音痴の父が、高齢大で知り合った人の誘いで詩吟を習いに行くようになった。
うちの中で唸ると(この表現、父は嫌がるのだ)、母が嫌な顔をするので、よくアパートの屋上や岸壁で吟じていた。
そんな努力が実ったのか、他の皆さんと舞台に立った事もある。
和歌山の従姉が亡くなった時、遺影の前で吟じてきたという。
父が亡くなった今、兄と”書いた物をまとめよう”と言う話しが出た。
版画や水彩画も入れて、母の書いた物もまとめてと、構想は膨らんでいく。言わば家族の記念誌だね。
これは、きっと父が乗り気になっているに違いない。
リストを作ってみたら、短文ながら七十編余・・・。
高齢大で一緒だった人達と”ふだん記”という手作りの冊子を発行していた。
その冊子の前半から私が、後半から兄がタイピングしていく。
タイピングしながら読み返していくと、父の色々な事が思い出されてくる。
呑気な父の性格もあるのだろうが、心豊かな一生を送った人かも知れない。