お蔭様です ――ふだん記二十号――

題名の通りの実感です。

有能な皆さんの間に門外漢が飛び込み、没になりそうな原稿ばかりですが、とにかく毎号休まずに二十号・・・二十数編になりました。

 読み合い、書き合いの合言葉に励まされ、加えてよき友を多数得たことは、何者にも替え難い大っきな[実り(そろそろ色づいてきた?)]になっております。そのうち二十号を区切りに「私の覚え書き」とでも題してまとめてみるかなと思っています。もしまとめられたら、これも替え難い私の掌中の玉となることでしょう。

 二十号に合せて重複する部分もありますが、また私の二十歳頃迄の根っこを掘り起こしてみました。

              ○

 旧制中学の頃、各校には現役の将校が配属されておりました。職員室の教頭先生より上の最上座の机に軍刀を杖に憤然と――馬場中尉殿であったかな――構えていたのが印象に残っています。「何の誰それ、教官殿(又は○○先生)に用事があって参りました」

大声・・・「声が小さい!やり直し」

 又、登下校時には必ず巻脚絆を着用のこと、下駄履きであっても例外は認められなかった。

 又々、教練の時間が増え、時折、他校との合同の軍事演習と、だんだん学業の時間に食い込んでいきましたね。
 大体、校内に体育用具室ならぬ兵器庫(学校にねー)なるものがあって、銃は井沢式教練銃、本物の三八式歩兵銃(陸軍の正式銃・五連発ライフル)が十丁位、模擬の手榴弾もありました。追撃砲もあったような気がします。

 教官からは少しでも軟弱な言葉や行動が見つかると、もう国賊呼ばわり、ビンタなどの体罰を受けたこともあり、階級章がない準軍隊の印象がありました。


 「いや、星をつけた軍隊はそんなに生易しいものではなかった」
 世を挙げて軍国調の歌が流れ士気を鼓舞し、もはやソ連・アメリカの仮想敵国に焦点が定められて、緊迫した状態にありました。

 戦時的な即製教育を受け、卒業も十二月に繰り上げられ、その二週間後にはもう渡満して任地へ。産業の戦力をそんなに遊ばせられないぞーというところだったでしょう。

 青雲の志を得て大陸へ――満州浪人的な放浪癖の芽生えあり――あるいは狭い日本にゃ住み飽きた等、このどれであっただろうか。あるいは見栄だったのか・・・定かではない。

 当時の国の大陸政策に、単純な私は乗せられていました。何で満州くんだりまで行ったのかと言われても致し方なし、人間至る所青山有りと言ったところで・・・。

 満鉄へ就職、新入社員五、六十人位であったか、大連近くの熊岳城(近くに二百三高地有り)、宿舎は元ロシア教会の立派な建物でベッドとパン食の生活を初体験。一週間みっちりと満鉄精神を叩き込まれ、全満に配置されました。

 任地は白城子(パイチョンズ・かつては大馬族張作霖の本拠地であった)大興安嶺の入口です。さらに三四時間入るとアルシャン駅、あのノモンハン事件のあった近くに達します。当時を振り返るに、突然ソ連が侵入してきたという事実はなかったらしい。

 私の仕事は機関区の技術員でしたが、それはさておき・・・。

 そのころ密かに――若い私らが分かる位だから公然の秘密だったが――本社の技術部では、ソ連進駐を予想して無給水の蒸気機関車を開発しておりました。

 エンジンの排気した使用済み蒸気を、排煙用にせず水に戻し給水にと再利用するものでした。蒸気機関車特有のあの白い煙がなくなるわけです。ソ連撤退の際は給水設備を破壊していくであろうと想定してのことでした。

 又、起動幅の差・・・。満鉄は広軌四呎八吋、ソ連は超広軌五でその差は四吋(約十糎)で、その分車両巾を広げなければならなかった。この辺を支線で盛んに試運転しておりました。

 私等社員にも満語よりロシヤ語を習えと・・・。

 今思えば、日本は思い上がりもいいとこであった。ソ連進駐あるいはアメリカ進駐は夢であったか・・・。
 私の[夢]多き青春時代はと問われれば、もうその頃は、周りに軍隊色のカーキ色のカーテンが張り巡らされ、視界も遮られて、暗くはなかったが夢も希望も見えなかった。しかし、これも長い人生のひと駒、苦しかったことほど良い思い出になるようです。今も大切にポケットの奥へ納めています。

 ウルマンの詩「青春」の一節

   年を重ねただけでは人は老いない

   理想を失う時に初めて老いがくる

私に都合よく解釈するならば、私は今、夢多き青春の真っ只中にありと言いたい。七十五歳の青年・・・ああ肩がこる。

          再見

 五月頃、ドイツで高速特急列車の大きな事故があったとテレビで報ぜられた。事故直後、生存者の救出作業のため大型クレーン車が二輌目の車輌を縦に吊り上げた。その時、車輌の下部が見えた。「あれ、車輌の外輪がはがれ、一部が突き出ている」と家族に説明しておった。

 後日、事故原因の発表があったが、やはりこれが原因とのこと、技術を誇るドイツが・・・と思ったものだった。

 我が新幹線の車輌は一体構造の設計なので心配はなし。もっとも新幹線だけで、ほかの車輌はドイツと同じです。

 五十数年前の元満鉄機関区技術員の目が、瞬間チョッとだけ光りました。

 俺はまだ「ぼけ」てないぞぉーと・・・。

機関車の車輌の構造

本体は鋳銅製で外周にホイールとタイヤの感じで(目的は違うが)さらに固い特殊鋼鉄の外輪を焼き嵌めたもの。
 焼き嵌めとは金属の膨張、収縮の性質を利用した接合法。

 高速によって外輪は過度に熱せられて膨張し、はがれ、変形脱線して橋脚に激突・・・、焼き嵌め工法の逆効果であったのかも。



     幹事会にて−ふだん記通信五十一号(平成十年十二月1日)

・今号の船をモチーフにした表紙、すばらしいと思った。扉絵とともに東さんの力作、ご苦労さま。