待ち人

2006.9.11

 人を待っていた。盛岡駅の2階、新しい北改札口の中・・・。
 新幹線はとっくに着いている。改札口を間違えたのだろうかと、駅員さんに聞いてみたら、”どちらから出るかはお客さん次第なので”と中で待ってるよう入れてくれたのだ。閑散とした改札口の中で、ボーッと感慨に浸っていた。
 母をデイに預け、釜石から3時間車を運転して盛岡駅に行き、仙台から新幹線に乗って来る髭を待つ・・・。7年前の私なら考えられない事だった。

 子供の頃は歩いていた。骨折で入退院を繰り返すので、医者から歩かない方が良いと言われ、以来歩くのを止めたのだ。
 乳母車に乗る事を嫌がった私の為に、母が自分では乗れない自転車に私を乗せ、引っ張って小学校に通ってくれた。
 中学は、近所に校長先生が居たので、自宅で勉強、担任の先生が時々来てくれるという事で、卒業出来た。
 中学の頃、ご近所さんの尽力で手帳を貰い、車椅子を使うようになった。
 父は休みの度に、車椅子を押してあちこち連れてってくれるようになった。
 ある日、TVを見ていたら、アメリカのバイク型の電動車椅子が出てきた。父と、かっこいいよね。日本でも出たら買おうねと話したのは何年前だったろう。
 それから数年後、スズキからセニアカーが出て、三十数万しただろうか・・・それまで掛けていた国民年金の制度が変わり、まとまった金額が戻ってきた。そのお金でセニアカーを買った。
 外に頻繁に出るようになり、事故に遭う確率も多くなるけど、セニアカーを買わなければ良かったと後悔はしないでねと、親達には言った。
 行動範囲は広がり、それでも父はいつもそばを歩いてくれた。歩道におきっぱなしの自転車を除けたり、自動ドアではない場所のドアを開けてくれる為に。

 7年前、ネットで知り合った髭と初めて会う時も、父は一緒に来てくれた。
 車の免許を取りたいんだけどと話したら、父は張り切って、車を運転する友達に相談してくれた。その父の友達が色々調べて段取りを付けてくれた。
 自動車学校からは迎えの車が来てくれる。酔い止めの薬を飲み、教習バッグを持って、父と迎えの車に乗り、五ヶ月通ってやっと取った免許だった。
 病気をしてからの父は、歩くのが多少おぼつかなくなったが、それでも、駐車場までの坂を手動の車椅子を押してくれ、車に車椅子を積み降ろししてくれた。
 やがて、父は腰を痛がるようになった。
 髭が、電池の持ち時間の関係で仕事には使えないと、別の電動車椅子に買い換えた。前に使っていた”電くる”を譲ってくれる事になり、坂道の上り下りは楽になった。
 親達は、私の運転での遠出を喜んでくれた。
 父が救急車で運ばれ入院した時も、車で病院まで通う事が出来た。

 そして、父が亡くなった今、一人で車に乗り、盛岡へ髭に会いに来る・・・。
 そんな自分が不思議でたまらない。
 父は髭に私を託したい気持ちがあった。父の”はからい”だろうか・・・。