祖父政吉の事

 私には祖父の記憶がまったく無い。それもその筈、私が生まれるずっと前に亡くなっているのだ。

 祖母はアパートの三階の我が家へよく来てくれた。交通事故にあうまでは。
 後年聞いた話だが、母が歩けない私をおぶって松原へ行った時、母の方へ来ようと道路を横断して、車にはねられたのだとか。
 以来、歩けなくなって、孫嫁が世話をしてくれた。
 釜石に来て何十年にもなるというのに、死ぬまで柔らかな和歌山訛りが抜けなかった。
 私の事を「ユミコ、ユミコ」と呼んでいた。私はクミコなのだが、太地の姪の子ユミコさん(私の又従姉になる)とごっちゃになってしまったらしい。「クミコだよ」と言い直しても、しばらくすると「ユミコ」になってしまう。
 兄が小さい頃「かあちゃんはオンナ、クミコもオンナ、ばあちゃんはオトコ」と言ったそうだが、気性のサバサバした、そしてあったかい人だった。
 父を女にすればそのままという位に、父は祖母に似ていた。
 祖父と祖母はいとこ同士だった。

 和歌山県太地町、私はいまだに行った事がないが、父は何度か行っている。
 釜石の平田のようなところだと言う。山が海に迫っていて、段々畑には夏蜜柑、文旦、ポンカンなどが実り、木で完熟したもぎたての夏蜜柑は「んまがった〜」と父は言っていた。
 鯨の町としても知られている。その昔の鯨取りは勇壮なものだったらしい。漆塗りの小舟で巨大な鯨に立ち向かったという・・・話を聞いただけでも胸が躍る。

 曾祖母てるは一人娘で、十九才の時に、海野家の次男初太郎を婿養子に迎えた。
 明治十年、政吉はそこの一人息子として生まれた。その頃にはもう勇壮な鯨取りは行われていなかったようだ。
 初太郎は船乗りで、親船の船頭をやり、のちにイサバ屋を始めた。
 政吉が二十三才の時に、母てるは四十二才の若さで亡くなっている。
 そのあと、政吉は渡米している。家業を嫌ってと聞いたが、私には母親の若すぎる死を悲しんでのような気がしてならない。
 機関車工場の整備をやり、政吉がアメリカから持ち帰った荷物の中からは防塵マスクが出てきたという。アメリカ風の缶のランチボックスも出てきたらしい。
 無口は祖父は、家族にその頃の話をしなかったらしい。

 地図には出ていないが、太地の隣にアメリカ村という所がある。先日TVで見たが、正式には美浜町という。
 東北人が東京に出稼ぎに行くように、アメリカへ出稼ぎに行き、一旗揚げて帰ってきた人達が大勢住んでいる所だ。
 祖母とく枝の姉夫婦は一家でアメリカへ行き、今も二世、三世・・・いや四世か・・・が住んでいる。
 兄常市、弟夫婦もアメリカへ渡った。弟夫婦は花屋をやり一番成功して帰ってきたという。
 この叔父幸市は、頭が良くて”発明おじさん”のようだったとは輝夫の弁。
 明治の末のアメリカ、夢と希望に満ちた新大陸、しかし、人種差別の厳しかった時代でもある。有色人種の祖父達にとっては一体どんな所だったのだろう。

 明治四十三年五月、太地では初太郎が、政吉と東幸作の五女とく枝との結婚を決めた。初太郎の実家、海野家を通しての姪である。
 政吉三十三才、とく枝二十四才、政吉滞米中、花婿の居ない婚儀だった。
 初太郎にすれば、いつまでも帰ってこない一人息子に業をにやし、所帯を持たせて帰国させたかったのだろう。
 三年後に長男正美が、その八年後に次男輝夫が生まれているから、時々は日本に帰ってきていたらしい。
 家業は初太郎と嫁のとく枝が切り回していた。鯨を追いかけて、太地と釜石を行き来していたという。
 一家は、大正の終わり、輝夫が二才の頃釜石に定住した。
 初太郎は輝夫を可愛がり、どてらの懐にいつも抱いていたと言う。
 とく枝は家業の奥野缶詰を取り仕切り、家の中のことはねえやさんがやっていたという。
 和歌山から連れてきた製缶職人や、女工さんが大勢居て賑やかな環境だったらしい。
 その頃の市場では、支払いは暮れのまとめ払いだったそうで、その度にアメリカから仕送りがあったという。

 昭和初期にしては珍しく子供達の写真が多く残されている。
 学帽・学生服の十五才の正美、その隣にはやはり学生服の七才の輝夫、なぜか缶墨をぶら提げ、長靴を履いている。米国デンバーに居る、とく枝の兄常市へ宛てた写真である。
 学帽に奥野缶詰の半天を着た正美、同じく学帽にダブルの服、ショルダー・バッグを提げた輝夫の写真もある。二人とも革靴を履き、輝夫は正美の手に自分の手を重ねている。写真の裏を見るとアルバムから剥がしたもののようだ。
 とく枝は米国の政吉に、二人の子供の写真をせっせと送り、政吉は釜石の家族の元へせっせと送金し続けた。ひと稼ぎしてお金をある程度蓄えたら家族の元へ、の思いはなかなか叶えられなかったに違いない。四十年近くの米国暮らしになってしまった。
 子供達に当時珍しかったチャック付きのジャンバーを送っている。小学生だった輝夫は珍しがって金具を上げ下げしたという。
 とく枝も、いつか米国の政吉の元へ行くつもりで「えいご」を習っていたという。「えーびーしーでーいーえふじー」と歌っているのを輝夫は聞いている。

 昭和八年二月、初太郎は八十才で大往生を遂げた。この時、政吉は釜石には居なかったらしく、とく枝が市役所に届けを出している。
 豪放磊落な人で、頼まれてよその子供を戸籍に入れた事もあると言う。一升瓶は底が見えるから嫌だと、樽酒を置いて呑んでいたそうだ。

 昭和十年、長男正美二十才。奥野缶詰で働いていた同い年の山崎トメと結婚した。とく枝がしっかり者のトメを見込んで決めた結婚だったそうだ。
 その翌年、正美夫婦の間に初昭が生まれる。輝夫は十四才で叔父になった。
 政吉は孫の為に米国から革靴やジャンバーを送ってよこしたそうだ。

 昭和十六年、太平洋戦争が始まり、最後の交換船「竜田丸」で、サイフォン、挽いた珈琲の缶詰、生クリームの缶詰、木製の鰹節削り器や羽根枕(子供の頃我が家にこの羽根枕があった)などを持って、政吉は釜石に帰ってきた。
 その年の暮れ、入れ違いのように、輝夫は釜石工業学校を繰り上げ卒業し、翌年、満州鉄道に就職、釜石を離れ満州に渡った。

 昭和十七年、輝夫二十才、満州で兵隊検査を受け釜石に帰ってきたら、知らない間に苗字が変わっていたという。名前だけとく枝の実家の養子にしたのだそうだ。よくもまぁ思い切って、たった二人の息子の一人を・・・と私などは思うのだが、戸籍を見ていると、養子縁組の盛んな家である。
 とく枝の兄常市は、若い頃から放浪癖があったらしい。
 横浜の女性との間に一人息子があったが、その人とは結婚していない。
 大正五年、39才の時に、横浜の七才年上のカネと遅い結婚をした。前の女性とは別人である。
 二人は一緒にアメリカに渡り、カリホルニア州サンピードキャナリという所に住んでいた。
 眼鏡を掛け三つ揃いを着て、しゃれた感じの写真が残っている。
 大正十四年、カネはその地で亡くなった。五十五才であった。
 そののち、日本に戻ったのか、大正十五年、一人息子力雄が二十一才で太地で亡くなった時には、常市本人が役場に届けている。
 あちこち放浪の果て、最期は東京の施設で亡くなり、輝夫が引き取りに行ったらしい。
 最初は、輝夫の従兄凉幸(よしゆき)さんを養子にしたらしいが、凉幸さんは二十五才で戦病死している。この凉幸さんの写真も私の手元にある。何かの縁だろう。
 輝夫はその常市の養子になり、満州で現地入営。
 正美は二人目の子供和子が生まれたが、赤ん坊の顔を見ずにあの激しかった沖縄戦で戦死。
 そして、敗戦となり、輝夫は釜石に帰郷。

 輝夫には、政吉と一緒に暮らした思い出があまりないという。
 印象を聞くと、無口で真面目な人だったという。
 敗戦後、米兵が旗を貰いに来た事があるという。政吉は米兵とは話さず、輝夫が片言の英語で話したという。長年のアメリカ暮らしのわりにはブロークン・イングリッシュだったのだろうか。
 政吉は、昭和二十一年四月、六十九才で亡くなった。終戦から亡くなるまでのわずかの間が、政吉の家族団欒の日々であったかもしれない。

 政吉がアメリカで四十年間掛け続けた年金は、パンチ穴の開いた小さなカード型の証書としてとく枝の手元に残り、その英語を誰も読み取れず、期限切れになるところだった。
 太地の姪利代が、アメリカ村の人に頼んで手続きをしてもらい、危ういところで間に合ったという。
 一時金は少なくなったが、年金は毎月支給され、とく枝が八十二才で亡くなるまでアメリカから送金された。

 これが私の知っている祖父政吉のすべて、戸籍謄本と、写真と、父から聞いた話しを、つたない筆でまとめたものである。
 本人を知らない私には、周りの知っている人達のことを書き、年表風にまとめるより他に方法が無かった。
 今、祖父に行き会えたなら、アメリカの話しを聞きたいものである。

          1993.7.16(2008.9.25改定)by A.Kumiko