満州は広かった
面積では日本の五倍、マップで見ると我が祖国の山の多い事、改めて驚いた。平地だけを比べたら十倍になりそうだ。
昭和十七年、満鉄白城子機関区の頃。機関車(火車)の主軸メタルを改造したのをテスト運転して、メタルの発熱温度を測定しながら、十二時間、各駅停車で走行させた事があった。いくら走っても途中山は見当たらず、見渡す限りの葦と灌木の原野だった(この辺りでは炊事やオンドルの貴重な燃料になる)。山岳県の岩手から行った俺は、満州は広いなあーと、つくづく思った。トンネルも、鉄橋も無く、直線が多い。建設費も安く上がり、工期も短いだろうと単純に思ったものだ。
《チナミに(1)、レール巾について
日本内地は狭軌で−3呎八吋
満鉄、新幹線は広軌で−4呎8吋
ソ連では超広軌で−5呎呎8吋》
同じ頃、無給水、軌道巾調整可能な機関車を開発して、これもテスト運転していた。ソ連侵攻を目指していたのか、夢に終わったのか、ともかく、ソ連軍が撤退に際して駅の給水施設を破壊するだろうとの想定の元に行われていたらしい。
《チナミに(2)、南満州鉄道株式会社は半官半民の紐付き国策会社で、社線は大連−新京(現長春)間の連京線だけだったが、これが満州を縦貫する大事な幹線で、ここをがっちり掌握していた。他の支線は満州国の国線と呼んだ。この辺から日本の大陸政策の一端が窺える》
俺の勤務地は支線の白城子機関区だった。四平街から入り、一路北へ、白城子を経て約二十時間でノモンハン事件で有名な国境駅アルシャンに達する。
《チナミに(3)、当時の国境駅は黒河、満州里、ハイラル、アルシャンであるが、どの駅からソ連のモスコーを目指していたのだろうか》
機関区技術課長の中嶋さんの元に、満鉄総裁表彰を受けた長尾さんがおられた。大先輩だ。ノモンハン事件当時、ソ連軍戦車が越境進撃してきた。弾薬輸送中の軍用列車が攻撃目標になった。その軍用列車に長尾さんが乗り合わせていた。満人の機関手は「快々的」と列車を切り離し、機関車で逃げようとした。長尾さんが必死の思いで連結器を繋ぎ、全速力で射程外へ避難させ、事無きを得た。「もしどこかに一発でも被弾していたら誘発して大爆発!は免れなかった。俺も存在していなかったよ」と長尾さんは笑っておられた
当時のソ連戦車の装甲は余り良くはなかった。砲はチハ車の数倍の威力があったのだが、射撃技術が低かった。まして五十km/hの速度で走行中の列車に、戦車の最高時速は二十五km/h、今考えれば当たらないのが道理だ。が、その時は必死であったろう。
《チナミに(4)、戦車の本命は歩兵部隊を支援して、その進出を容易ならしめる為にあり。〔チハ車〕は中型(十七トン)の戦車でエンジン十二気筒、四百馬力、車載重機関銃−1、同砲(五、七cm)−1、乗員−5、最高速度二十五km/hは出たか。二人乗り斥候用の軽々戦車(ガソリンエンジン)で三十五km/h出るのがあった》
「ポオーロマイマイ…」これは街を流し歩く満人の廃品業者の買い声である。のどかなものだ。出で立ちは藤蔓製らしい背負い篭と、先端に鈎の付いた長い竿を持っている。呼び声は物を買う為ではなく、留守を確かめる為。鈎竿で窓際にある物を篭の中へ…。俺もやられた事がある。場所は満鉄青年隊々舎、五十人収容の二階建てで、塀は低く一階は丸見え。着任して二ヶ月目、自室の窓を開け、前日の雪で濡れた外套をハンガーにぶら下げて出勤した。……。支給されたばかりの良い防寒外套だったのに。翌日上司に報告したが、取られる方の管理が悪い!と大目玉。ドジだが、懐かしい思い出である。
ここまで駄文を読んで戴き多謝。再見。
(『ふだん記四号』平成五年七月)
読後感想−佐藤竹男
◎満州は広かった
満州(現中国東北部)の広さは体験して初めて実感が出るものと思います。あれから(昭和十七年から三年、昭和二十年)ソ連侵攻で関東軍も民間人も皆追い出されました。それにしてもしっかりとした記述に敬服です。
