昭和十年頃、そして満州
五十余年前になる。大病をして一年遅れで釜石夜間中学に入った。校内弁論大会があり、一年生だったが俺も出た。題は「人生の推進力」、四等だった。随分と大それた題をつけたものだが、今、白状すると盗作だった。何かの本を読んだものか、内容はツェッペリン…エッケナー博士位しか覚えていない。自分で考えたものではないから記憶が無いのは当たり前で、それを青二才の鼻ったれが得々と気取って発表した。今思い出しても顔が赤くなる。それが多数の人々の前で自分(?)の意見を発表した初めての体験だった。(次回は五十数年後の高大でとなるが…)
その後、夜間中学は一年でやめ、出来たばかりの釜石工業高校へ通い、戦中の増産体制下で、昭和十六年十二月二十五日に繰り上げ卒業。即働けと言うことか、二週間位しか遊べなかった。翌年一月満鉄入社。海外雄飛とか、狭い日本にゃ住み飽きたとか、言いたい所だが、たまたま内地より海外就職が優先されたのにとびついた迄。渡満航路は、下関から連絡船で大連へ上陸。近くの熊岳城で新入社員の合宿研修があった。宿泊所は元ロシア教会を接収した建物で、ベッドなるものに初めて寝た。東北と九州が同室になり、東北弁のボソボソした感じと南国の明るい陽射しのような九州弁が対称的で、通じないわけではないが面白かったね。
ここで五〜六十人位だったろうか、しっかりと満鉄精神を叩き込まれた。我が南満州鉄道株式会社は資本金一億の半官半民の世界最大の−当時は確かに−国策会社であるとか、まあまあキレイな資料を一杯貰った。
カリキュラムには、見学、レクリエーションがあり、旅順港や二百三高地砲台跡(小高い丘だった)から見下ろすと、鉄条網の木杭(コンクリート造り)−一キロ位で全部見渡せる狭い範囲の所だったが、ここで激戦死闘が繰り広げられ、この地にどれ程の尊い血潮が流れしみ込んだだろうと思い、冥福を祈った事だった。
レクは小さい山の峰に網を張り、勢子が声を上げ、草を叩き、これを追い上げて行く。野兎が五〜六匹は掛かっていた。慣れた連中は直ぐ長い足をボキッと…、ご免。昼食は早速にウサギ汁。
ドジな話し。十日間の研修を終え大連の町へ一日外出が許された。三々五々、俺達は四人でうな重を割り勘で食べた。旨かった。さて勘定をとなって、皆細かい持ち合わせが無いと言う。確か六円位を俺が立て替えた。翌日それぞれの任地へと全満に散っていき、誰も返してくれる者は無かった。ちなみに初任給五十五円、あとの祭りの一幕でした。
俺の任地は白城子機関区、新京(現長春)から北へ十五時間位入った所で、かの高名な馬賊長作林の本拠地だったそうだ。馬賊と言うと日本では山賊のようなイメージがあるが、実際には民間警察のような存在だったらしい。
宿舎は満鉄青年隊々舎(入社と共に入隊が義務付けられる)で二人部屋。舎監は軍隊上がりの下士官で起床・部屋前整列・点呼、夕方部屋前整列・点呼・消燈、外出も許可が必要で、銃が無いだけの軍隊と全く同じだった。
食事は外米+粟+高リャンの三穀飯。参ったのは一〜二mmの小石の混入だった。見える限り箸でつまみ出し、テーブルの上には十〜二十粒も並ぶ。それでも口の中でジャリッ、途端に食欲が無くなってしまう。急ぎの時でも茶漬けでかき込むなんて出来なかった。
俺の釣り事始めは奥地の小さな川だった。出張のついでだったが、釣針とテングスは持って行った。竿はその辺の小枝、小虫を取って、ひょいと入れたら何と入れ喰い。二十〜三十cmの鯉に似た魚だった。バカな魚なのか、釣針を恐れないのか、まず釣れたね。
満州での思い出は尽きないが、今日はこの辺で。お後がよろしいようで。
(『ふだん記三号』平成五年三月)
読後感想−佐藤竹男
◎昭和十年頃、そして満州
雄弁大会に「人生の推進力」を発表した心意気が羨ましい。満州(旧称)の話題が豊富な湧泉である事が分かりました。
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