慈善鍋
昭和八、九年、俺が小学校五、六年生の頃海洋少年団に入っていた。団長が後に校長になられた桜野先生、班長には吉田豊さんがおられた。服装は海軍の水兵さんに似たセーラー服、首からぶらさげた紐の先の笛は胸ポケットに入れ、腰にはロープ、手には団杖をかかえていた。この団杖は八角で、一米半位、整列の時に脇に銃のように立てて持つと、頭の上まであった。
ボートを漕ぎ相互に手旗信号で交信した事、笛でのモールス信号、ロープの結索法を習った事、などなど。
卒団近く、大船渡湾の無人島、サンゴ島へ岩手丸で渡り、一週間のキャンプ生活を送った。雨にたたられたり、俺が下痢をしたりでさんざんのていだった。
尾崎神社の大祭には、ロープと団杖で交通整理をした。一応警察に協力したつもりだったのだろう。又、団杖三本で三角に組み、大鍋に水を入れて吊るし、街角にも立った。
「東北の凶作に義援金をお願いします!」と、メガホンで叫んだ。多分、恥ずかしそうな低い声だったろう。
これが初のボランティア活動だった。以来六十年になるがそれらしい事は何もしていない。自分の事、家族の事、それだけに汲々としていた。年金暮らしになった現在でも、自分の為に暮らしていこうとしか考えが延びていかない。今ボランティア精神とはと説かれ、「ハイッ!」と分かったように書いたり言ったりしているが、大正生まれの俺には何か付け焼き刃のような気がしてならない。
七月九日、昭和園で在宅身障者との交流グランドゴルフがあった。二人と、俺達スポーツ部員四人でグループを作りプレーした。打順は女性の後に女性、男性の後に男性と決めた。距離やルールはぐっと優しくしたが、打数が多くなり、テンポも遅かった。それでも青空の下、皆喜々としてボールを追いかけていた。ほかのグループに車椅子の方がおって、板沢さんがずっと押しているのが、眩しく見えた。特報!我がグループの身障者の方にホールインワンが出て、当日のトップ、自分が入れるより嬉しかった。帰りに「アリガトウ」とニコニコしながら堅い握手を求められ大感激だった。
思うに弱者とか強者ではなく、「出来る状態にある人」「今は出来ない人」とがお互いに支え合い、カバーしあって、共に生き抜いていく、この辺りがボランティア精神ではないかと俺は思った。身障者ばかりではなく多くの「今は出来ない人」がいるし、「出来る状態」で手を差しのべてやりたい人も多くいるに違いない。この両者の接点やチャンスがなかなか無い。この接点として、釜石にもボランティア・バンクが欲しいものである。
おわり
(『はまゆり二号』平成五年九月二十一日)
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