『彷徨』=命令=

 全体の流れが掴めないので、年表風に両連隊の動きを対称的にチェックしてみた。
 明治三十四年十一月末頃、旅団会議の席上で、旅団長より直接両大尉に「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」−生体実験のドラマ開始の命令が下された。

月 日│
┌ 初│ D 山田少佐に神田大尉計画書提出。
12 10│ D 部下三名で田茂木野へ予備調査を行う。
月 中│ 31 児島大佐へ徳島大尉計画書提出、発表。
└ 25│ 31 徳島による小隊の編成。出発まで二十五日。
┌ 6│ D 三十一隊の予定表を受け取る。
│ 18│ D 小峠まで予備雪中行軍を行う。好天。
│ 20│ D 連隊長に雪中行軍計画書を提出。
│  │  弘前五時三十分−三十四km−小国十九時宿泊。
│ 21│ D 田代に中隊編成で一泊行軍の命令提示。
│ 22│ D 大隊の瘤付で中隊編成、出発前日。
│ 22│ 31 小国−十六km−切明温泉。
│ 22│ 31 吹雪、切明−途中雪崩−銀山。
│ 23│ 31 銀山七時−十六km−宇樽部十六時、吹き荒れ、
│  │  民家の土間で終夜焚火。
1 23 │ D 青森六時五十五分発、小峠で昼食、天候急変。
月  │ 吹雪の作戦会議中、山田少佐抜刀して前進と、
│  │  ある得べからざる彷徨の始まり。
│  │   小峠五km−馬立場十六時十分、雪壕。
│  │ 31 宇樽部−二十四km−戸来村中里で夜間訓練。
│ 24│ D 兵一人発狂凍死、鳴沢の峡谷へ入り込む。
│  │  Uターンを繰り返し四十名姿を消す!
│  │ 31 中里−二十二km−三本木十六時。本部より電
│  │  話メモ、五連隊の消息分からず。
│ 25│ D 更に朝の点呼で三十名! 三時〜五時の彷徨
│  │  で三十名。カヤイド沢着、生存者五十名。
│ 26│ D 更に更に生き残り三十名全身氷に覆わる!
│  │ 神田大尉、舌を噛む!

 何と悲惨。これが人の命令により人にさせた事か。事故ではないのだ。これが軍隊だと思うと涙無くしては読めなかった。

│ 26│ 31 三本木六時−増沢。
│ 27│ 救助隊出発十一時、仮死一名、二遺体発見。
│  |31 増沢二時−八甲田山、無人小屋へ宿泊。
1 28 │ 31 鳴沢は死の通行税を要求、かろうじて生還。
月  │ 一睡もせず。
│ 29│ 31 田茂木野着、救助隊から尋問を受ける。
│ 30│ 31 青森・浪岡各一泊。国道を経て弘前へ。
└  │ 夜遅く九名、炭焼き小屋で二名救助。
2 ┌2│大崩沢の炭焼き小屋で四名、附近の炭焼き小屋で
月└ │一名救助。

 生存者十七名の内、入院中・自殺も含めて六名死亡、十一名となる。
 五月二十八日、最後の遺体発見で捜索活動終わる。
(注=Dは第五連隊、31は第三十一連隊)

   読書討論を終えて
 俺達のグループは小野さんの提案で、サワ女の下りを討論、発表したが、当を得たものと思う。行軍中唯一の明治女サワ女に鬼の帝国陸軍徳島大尉以下三十七名が叱咤激励され、ヘトヘトになって羽井内の部落の見える所迄辿り着く。途端に銭を与え、「案内人は最後尾に付け」|「もう用はねえってわけか」のサワ女の一言。喇叭を吹き威風堂々と部落に入っていく。その晩は夜間耐寒訓練…その辺りを掘り下げ、時代背景、軍隊とは、また軍人徳島の内外面的なものを討論して煮詰めていった。良いものを発表出来たと思う。
 実質四週にわたる読書研究、皆さん良く勉強していて討論にも熱が入り、初体験の俺には大っきな収穫だった。この辺で。

(「読書研究『八甲田山死の彷徨』に見るリーダー論」平成五年三月)