ゴマメの独り言 その後
自分史の一頁に平成四年十月、高齢者大学卒と書き入れる時が来た。
週に一度だが、二年間曲がりなりによく通った。勤め先の理解や、家族の協力のお陰だが、これにも増して講義、趣味創作活動、皆さんとの出会い、交流、和室での昼食、これらの楽しさが、私の足を大学に向かわせたのだろう。
六十九才にして三人掛け七つ、四列と机を並べ、一緒に学んだ。皆、健康的で意欲満々、全て吸収せんものと克明にメモをとる人、腕組みをして一言半句聞きもらさじと講師をにらんでいる人、コンマ以下の少数だが要領よく瞼を上下仲良くさせてメイソウにふける人(その一人だが)、「面々」いや「シワシワのたくましき群像」。それぞれの人生コースをたどり生きてきた、そのシワの中に、誰も知る由のない何かを秘め、刻み込んで、三人掛けの机に何食わぬ顔で座っている。年輪も六十、七十になると実に堂々たるものがある。今まで張り巡らした根から養分を吸い上げ、更に更に枝を張り、高く伸びようとしている。これらの群れにチャッカリ自分を上乗せして、養分を吸い、枝を張り、伸びようとする。
生涯学習、よく見聞きする四文字だが、学習する、学び習うという事は誰かに手引きしてもらうという事だろう。となると死の直前まで誰かに手を引いてもらえという事だろうか。学習するを言い換えて追求するとしたい。道を極めることによって、老若問わずそれなりに人格、風格が備わってくる。もちろん相応の努力が必要だが。我が身を振り返ってみると、六十九才にして定まらずで、回り道ばかりで情け無い。模索の時間をとり過ぎた。気力はまだまだだが、体力に余裕が無くなってきつつある。これからは狙いを定めて一直線のコースをたどり、最終的には何かをこの手でつかみたい。
(卒業文集『はまゆり』平成四年十月より)